宗教学を学びました!

 

 

 こんにちは、秋山です。

 

 私はこの数年、大学院にて、宗教学を学び、修士論文を書きました。この歳であらためて、学問側の作業を集中的にやるというのは、とてもスリリングな作業でした。しかし、キャンパスで学生気分を再度味わうというのは、甘酸っぱい青春期に戻ったようで、ワクワクするような側面もたくさんありました。

 

 私がテーマにしたのは、在野の超常現象研究家の中でひときわ異彩を放っていた井村宏次氏が、その著書の中で触れた霊術家という明治以降、日本に群雄割拠し、注目を浴びた霊的能力の実践者たちについてでした。

 

 私は、主に大正期に活躍した研究者・実践者に絞って、研究を開始したのですが、当時、そういった人々は、文献を当たると、数万という数で存在し、医師や弁護士、社会教育家など、知的水準の高い人たちが、多いことを知りました。

 

 しかし、学問の対象にすることは大変難しい問題があり、まず、生没年がわかっていること、テキストや記録が残っており、その理論や方術の内容を追跡できることなどが必要でしたので、結局、10名前後の大正期に注目された霊的実践者の人生を追いかけました。

 

 結果、面白かったのは、当時の彼らの心理的な立ち位置が現在のスピリチュアルに関わる日本人の立ち位置と大変よく似ているという点が、浮き彫りにされたことです。私は彼らの主張の中で、その論理展開が、より学問的なものを目指そうとしているのか、呪術的な方法論を伝授しようとしているのかで、学問的志向呪術的志向という具合に、まず2つの方向性に分類しました。

 

 そして、さらにそれと交わるように、彼らが霊的世界や神の意思などの不可知なものに動かされていると信じているのか、それとも自分の法力の呪術性はあくまでも自らの中にある可知論的エネルギーであると考えるのか、これを横軸のベクトルとしました。

すると、当時の霊術家の多くは、可知論に寄り添おうとし、自分の呪術をテクノロジーとして捉え、未知なる力を後々、将来的にコントロールし得るもの、つまり、霊的な力が人類の科学によって、解明されるような性質のものであると考えながら、それでもなお、伝統的な呪術的ヒーリング、願望実現のための祈祷、人生相談などを生業としたことがうかがえました。

 

 現在の我々はどうでしょうか。多くの人が大学に進学し、学問を身につけようとし、基本的には、不可知なもの、神や霊界やオカルトには近づかないよう、非受容的、批判的な態度を取る人が多いのにも関わらず、初詣に行き、墓参りに行き、ハロウィンを祝う、いわば、呪術的な意味で霊的な力との合一や、運の向上を祈り、祭りに関わるということが常態化しています。私たちは気がつくと、可知論の中で生きようとしながらも、呪術的な文化を切り離すことができないでいるのです。

 

 私からすれば、私たちの心の中に、生まれた時から、不可思議な力を、見えない力を常に感じているセンサーが働いていて、それこそがとても人生の幸福において、大切であると知っているからではないかと思います。そういう見えない力と、見える学問の狭間で生きている私たちは、迷える子羊ではなく、実はとても幸せな生き物なのではないかと感じることがあります。

 

 

※画像は、平成27年に世界孔子協会(会長は稲盛和夫氏)が秋山に授与した孔子超能力賞の証書