金沢の白山比め神社へ

 

 

白山比め神社、社殿が晴れていたのが一瞬で雪景色です。

神々しいシンクロニシティに、立ち会えて幸せです。

 

 

 

白山比め神社岩座(いわくろ)です。

昭恵夫人をキクリヒメが守っていらっしゃいます。

 

正式参拝させていただきました。

 

皆で記念撮影です。

 

おのれの体験に素直に生きる!

 

 精神世界は相変わらず活況のようですね。テレビなどでは、暗黙の放送倫理があり、超常現象や霊能力、超能力的なものは、肯定的に扱ってはならないという御触れが出ているそうです。しかし、公正さという面で、あれだけ神経質なテレビメディアが水面下でこんな約束事をしているとすれば大問題です。現在はどうなっているのでしょうね。

 

 しかし、テレビがそんな具合になった現在でも、精神世界の本は売れているし、イベントもさかんだし、かえって活気があるようにも思います。

 

 そもそも、統計をとると、どの時代の人たちも、7割強の人々が、精神世界を信じており、それはほとんどが体験から来ているということがわかっています。実際、生活の中で、シンクロニシティや虫の知らせ、霊的な感覚や人と気持ちが同化するテレパシーのようなことを完全否定することの方が難しいと思いますが、いかがでしょうか。

 

 マスメディアは、少し不自然な縛りに囚われているようにも思います。アメリカの大手大学病院が手かざしを中心とするレイキや瞑想、ヨガを受け入れていることをメディアはどのように考えているのでしょう。

 

 やはり、私たちは、おのれの体験に素直に生きるべきです。生命はそもそも、超自然な力の中にあります。細胞がなぜ分裂し、人はなぜ生きていられるのか。遺伝子の指令だという説明で納得する人々は無理があります。私たちは心身含めて、やはり小宇宙であり、神聖な力に包まれ、日々、生まれ変わりながら、生きているのです。

 

 

 ※画像は人気テレビ番組で超能力の実験をする20代の秋山

原風景

 

 

 私は「原風景」という言葉が大好きです。

 

 ユングは「アーキタイプと名付けたシンボルが人間の心の奥底にあらかじめ潜んでいる」という概念を提唱しましたが、いつ頃、忘れてしまったかわからないが、再び出会うと、胸が激しく鳴る初恋の思い出のような原風景があるものです。

 

 そういう意味で、私の原風景は、実は、延々と広がる田んぼなのです。

 

 小さい苗が整然と植えられたばかりのみずみずしい田んぼには、昔、覗き込むと、タニシがいたり、イモリがいたり、普段だったら、忌み嫌われるヒルまでが、のびのびと泳いでいるように思われたものです。時々、赤くハサミの大きなアメリカザリガニが現れて、なんとか捕まえたいと、興奮したりしたこともありました。その時には、ザリガニが外来種などと区別することもありませんでした。

 

 稲が実ると、一面の黄金色です。どこまでもどこまでも黄金色です。空には、淡いちぎれ雲が流れていて、なぜかボーッとみていると、時間の外側にいるような不思議な気持ちになりました。

 

 しかし、もう1つ、田んぼには、今はなかなか見られない不思議な風景があって、肥料にするためなのでしょうか。刈り取りの後、たくさんの蓮華草の種が撒かれて、あっという間に田んぼは、ピンク色の絨毯に覆われるのです。

 

 この一連の表情の変化が一瞬で蘇ってくるのが田んぼという原風景です。

 

 田舎育ちであることがバレてしまいましたが、そういう自然と人工の中間点のイメージの美しさが実は、僕たち昭和世代の原風景かも!とも思います。

 

 近頃驚いたのは、家の小さい庭の植物の上にアサギマダラという蝶を見たことでした。小学生の頃、森の中をヒラヒラと縫うように飛ぶ、この美しいステンドグラスのような蝶を追いかけて、幾度、迷子になったことか。

 

 生態系がどのように変わったかわかりませんが、その幻の蝶が大都会東京の片隅で楽しそうに「今」を生きていました。

 

 

※ 画像は、事務所に飾っている、私の原風景に近い絵です。

琵琶湖に浮かぶ竹生島

竹生島に上陸しました。

晴れて青空も美しく、優しいバイブレーションに感動しました。

ここは強いバリアがあり、悪いものを受け付けません。

聖域にも様々な個性があり、霊感を働かせながら行動すると

すごく面白い発見がありますよ!

 

 

 

頂上に不動尊がまつられていました。

優しい弁天を守る、強い力があります。

父性的な強さと母性的な強さが共にあるのが、この島の特徴のようです。

 

 

井戸と水がありました。

水の力こそ弁天の力、生命と優しさを守ります。

おかげで、とても元気になりました。

 

 

 

一対の宇賀神さんが出迎えてくれました。

単なるヘビではなく、ものごとを通すきっかけを与える力のシンボルです。

初めての世界に向かう勇気を与えてくれるのです。

国際化に巻き込まれて新しくなる、日本に必要な力です。

 

 

琵琶湖の花火です。

浄化と先祖への癒し。

花火は、弔いと祈りへの熱意をあらわしています。

 

永平寺

 

永平寺の入り口にて。広い参道が続いています。

ゆっくり、ゆっくり、歩きたくなる・・・。

 

 

 

永平寺を巡る。

屋根の下を歩ていてまわれるお寺。

山の中に凄いものを建てた、いにしえの人々の力はスゴイ!!

 

 

 

永平寺の中庭。

自然と同居している修行の場です。

 

 

永平寺門前に稲荷あり。

川に森の緑。癒されます。

祈りの場の力が満ちている。

 

稲荷前に美しい蝶が出現!!

オオムラサキのメスか!?

先祖の導きを感じる。

 

 

苔に包まれた山道。

観音様が見える救いのカタチ。

愛情はすべてを凌駕する

 

 こんにちは、秋山です。

 

 私たちが、恐れを感じる対象は「理解できないもの」にあるということを、今まで、様々なおりに触れてお話しをしてきました。

 

 暗闇、海の底、宇宙の果て、人の心の中、おばけ、怪物etc…。理解できないもの、わからないものは、私たちに激しい恐れを感じさせ、そして、この恐れが手につけられないぐらい膨れ上がり、放置されると、それは、理由のない攻撃心に変わるのです。

 

 この連鎖的反応は、私たちが安らげず、戦いを繰り返す根本的な理由の1つです。平和が大事だと誰もが知っているのに、平和を目指す団体が対立や内ゲバを繰り返したりするのは、とても不思議ですね。

 

 だからこそ、わからないものを解明しようとする好奇心は、真の平和の原動力であるともいえるのです。わからないストレスを好奇心に変え、楽しく勉強する探究心に昇華させるという技術が、情報が複雑化したわかりにくい現代社会には、絶対に必要な平和へのテクノロジーです。

 

 自分の心を楽しくわかろうとしてみましょう。この探求は同時に他人の心を理解する道でもあります。そこにある問題を明確化して、乗り越える方法を考えることを楽しみましょう。自分の心の反応を、楽しんで楽しんで楽しみ抜くのです。すると、自然に恐れが浄化され、気がつくと、幸せな場所に立っているという結果を生みます。

 

 私は以前「愛情はすべてを凌駕する」というユングの言葉を紹介したことがあります。さらにこの言葉を広げましょう。「楽しもうとする心、好奇心、愛情はすべてを凌駕し、戦いを消滅させ、富を生み、人類を強くする」

 

 神が創造の主であるならば、私たちが創造的人生に近づけば、すべての人々が創造体になり、すべてを乗り越える幸せを経験するでしょう。

 

 

 

※画像は秋山の事務所に置かれていた天使の絵

 

 

 

 

神話や神様の問題について

 

 こんにちは、秋山です。

 

 日本的な神話や神様の問題について、触れてみたいと思います。

 

 日本は、海外から、よく、多神教であると言われます。それは、日本人の伝統的宗教である神道が、ヤオロズと言われる多神を教義の中枢に据えているということが挙げられるわけですが、私が思うに、これは、やはり英語と日本語の翻訳に行き違いがあると感じるのです。

 

 そもそも、神道で言う、宇宙の中心的意志であるアメノナカヌシノオオカミを創造主としたならば、そして、それ以外の神々をキリスト教で言う天使や精霊と仮定したならば、意外と、他宗との共通点が見出せる可能性があると思います。日本神道の教えが、古代ギリシャの神話やユダヤの神話に共通点が多いということは、戦前から言われていますが、どうしても、神道側も「諸外国の宗教と我々の神道は違う!」と叫びがちな傾向はあり、共通点が唱えられていながらも、この問題は、いつも平行線をたどってきたような気がします。

 

 精神世界でも、日本人は、ユダヤ人の子孫という主張は根強いですが、では「それはどの種族で、シュメールの血も入っているのですか?」という、より具体的な疑問には、うやむやな答えしか返ってこない人が多いです。

 

 一方では、ユダヤ人の陰謀が日本を飲み込もうとしているという人もいます。それでは日本人は、一体何を、歴史の中で飲み込んできたのでしょう。

 

 私たちは、どうしても、自分たちが惚れ込んだ歴史と宗教をこだわりとしてしまい、信じすぎてしまう傾向があります。しかし、それは単なる文化論で片付けられません。偏った民族論が戦争を生み、たくさんの日本人を殺しました。また、偏った思想が、暴力的学生運動を生み、たくさんの若者が苦しみを経験しました。そういった苦い時代を過ごした我々が、今、老齢化社会という、さらに難しい問題に直面しています。

 

 年を取るということの不安感と孤独を凌駕できるのは、健康食品や流行の医療技術のみなのでしょうか。肉体の老化というさだめを超える、心を幸せにする信仰や思想をもう一度考えてみたいものです。

 

 

 

宗教観の難しさ

 

 こんにちは秋山です。

 

 今回は、宗教観の難しさと癒しについて触れてみたいと思います。

 

 我々の諸生活の中で、宗教の話がタブーとされるのは、ちょっと話しただけで、意見がぶつかり合いやすいからです。

 

 何か特定の宗教に熱心な方がいて、出会って間もないご近所さんに、突然「私の宗教は凄いのよ」と切り出したとして、それを語られた方は、どう反応していいか、答えに困ります。他人に何か話しかける場合に、相手が答えに窮したり、不愉快な感情になるコミュニケーションは、結局、相手が離れていくきっかけになります。

 

 「そんなことは、言われなくてもわかっている」と、皆さん、おっしゃるかもしれませんが、私がたまに訪れるレストランでは、実は、店長が特定宗教の信者であるということを黙っていたのですが、あるとき、タイミングが悪いというべきか、勾玉のアクセサリーを首から下げた人と十字架を下げた人が、お客様として二人で店の中に入ってきました。

 

 私は、そこにいて、当初、気にもとめなかったのですが、それを見た店長はいきなり、「その胸元のアクセサリーを見えないようにしてもらえませんか」と強い口調で怒鳴りました。言われた二人は、最初、キョトンとしていましたが、意味がわからず、怒って出て行ってしまいました。

 

 さて、この場で損をしているのは、一体、誰なのでしょうか。突然怒られた二人の客か、自分の宗教を強気で貫いたものの客を失った店長か、それとも、その両者の様を見て、複雑な気持ちになった私自身なのか。

 

 皆さんは、こんなシーンに出くわしたら、どのように反応し、どのように気持ちを切り替えるでしょうか。私たちは、多くの考え方の違う人と生きる場合に、何を基軸として幸せを求めたらいいのでしょう。

 

 私がはっきり言えることは、人の感情を無視して、和合したり、寄り添ったすることのできない宗教は、結局は、社会を敵にするということです。良い感情で少しでも他人の感情に寄り添うことができれば、人は確実に、幸せに向かい、富を産み、発展します。まず自分が良い感情を持ち、柔軟な思考と広い視野を心がければ、他人の感情に寄り添うゆとりが自然と現れてくると思います。

 

 楽しもうとする人生が、結局、周りを楽しませ、すべてを発展させるのです。

 

 

 

伊勢神宮・内宮

 

天照大御神を祭るこの地。

何度目かの訪問ですが、本当に静かで、真の霊的静寂がある。

自己のざわつきが、浄められます。

 

 

 

 

 

神域は、ただただ静かです・・・。

派手さ、不思議さをしまうのは、心の歪みだと教えているようです。

 

 

 

 

 

橋を渡るのは、生まれ変わるシンボルです。

何を生まれ変わらせるのか、感じながら渡ることです。

 

 

 

気持ちが良いな・・・。

内宮に入ったら、まずここにご挨拶。

神様がお浄めして下さいます。

 

 

 

さあ、内宮です。

偏りのない霊的美しさです。

 

内宮入口右側に、いわくらがあります。

ヤノハヒキノカミ(正殿の守り神)が、まつられています。

気が付く人は、あまりいないようですが、

大事なポイント!!

 

 

 

天照大御神の荒魂を祭っているお宮です。

荒々しい力を鎮めようとする試みは、神社の原点ともいわれます。

 

 

 

ここにも、いわくらがあります。

小さいが、重要な神が宿っているのを、感じる。

ミヤノメグリカミが、まつられています。

 

 

数百年前の年代が記された、ギボシです。

ここに、ずっとあり続けるもの。

伝統こそ、力ですね。

また、伝統と尊敬が一つになってこそ、聖域という場は守られるのです。

 

祈りは彼らに届きます

 

 こんにちは、秋山です。

 

 このところ、立て続けに、UFOに関する本(自分自身の少年期から青年期に至るUFOや宇宙存在との交信記録)をナチュラルスピリット社から出版しました。

 

 この本は、アメリカで、2つの大学院を卒業した元共同通信記者の布施泰和氏のインタビューに答える形をとったものです。

 

 私が当初、超能力少年として注目された頃は、「UFOを呼ぶ少年」という肩書きで紹介されることが多く、「UFOを呼べた、呼べないが、僕のテレビでの勝負だ」と考えていた時もありました。

 

 しかし、現在は、どんな人でも、然るべき方法を真面目に学べば、UFOを呼べることは、ほとんどわかってきていて、決して不思議でもなんでもないという時代になってきました。

 

 確かに、わが国の歴史を調べても、祭事や宗教的儀礼の1つとして、多くの人が深夜、海岸などで、神や精霊と思われていた光の球を呼び出し、たくさんの光球の中で、奇跡的な現象を体験したという話が数多く残っています。

 

 UFOは新しい話題ではなく、私たちの文明に何千年という単位で寄り添ってきた、愛ある高度知性体の歴史が今も続いているという証なのです。彼らは、私たちの自由な、そして幸福な文化的発展を陰ながら見守り、サポートしています。

 

 天上を見上げるときがあったら、「UFOよ、来てくれ」と念じることもよいのですが、「今までも、そしてこれからもありがとう」という、彼らに対する感謝の思念を放射することも、忘れないでください。1分でも1秒でも、その祈りは、必ず彼らに届きます。

 

 

※画像は、秋山氏の描いたUFO